2025.04.18

皐月賞 ゴールドシップ

今週末、中山競馬場では皐月賞(GⅠ)が行われる。牝馬も出走は可能だが、実質的に牡馬クラシック3冠の第1弾といえるこのレースを、2012年に制したのはゴールドシップ。手綱を取ったのは内田博幸騎手だった。

 1970年7月、福岡で生まれた内田は、幼少時、器械体操に興じた。その後、上京して大井競馬場で89年に騎手デビュー。南関東でのリーディング、大井でのリーディングを経て、06年には日本人騎手の年間最多勝記録を更新。08年にJRAの免許を取得するといきなり123勝を挙げ関東リーディングを獲得。翌09年には146勝で全国リーディングの座に輝いた。
 しかし、11年には大井で落馬して大怪我を負った。
 頸椎歯突起骨折と診断され、すぐに頭を固定されると、しばらく絶対安静の状態となった。
「寝返りすらうてない状態が約3カ月続きました」
内田騎手は当時をそう述懐した。
戦列に復帰出来たのは落馬から約8カ月後の翌12年の1月も終わろうという頃。その2週間後の共同通信杯(GⅢ)では早くもゴールドシップと初めてのタッグを組んだ。
こうして共同通信杯では後のダービー馬ディープブリランテを退けて優勝。そして、皐月賞に臨んだ。

第72回皐月賞は、前日に降った雨が残る馬場。発表は稍重だったが、実際にはそれ以上に悪く思える状態だった。
当日の午前中に馬場をチェックした内田騎手は次のように感じたと言う。
「内は悪過ぎるので、とてもじゃないけど通れないと感じました」
ところが実際には各馬が少しでも馬場状態の良い外を回った3~4コーナーで、内田騎手の操られたゴールドシップはただ1頭インを強襲した。レース後、話をうかがうと、内田騎手は次のように語った。
「ぬかるんだ馬場ではあったけど、時間の経過とともに少しずつ水分が飛んでいるのが分かりました。道中は中途半端な位置で外々を回らされるのは嫌だったので、思い切って後方まで下げて、そこでインの悪いところを走らせてみたら全く嫌がる感じもなく走ってくれました」
だから皆が外へ行った時、迷わず内を突いた。レース前から考えていた策ではなく、ゲートが開いた後、レースの最中に臨機応変に対応した結果があのコース取りになったのだった。
内田騎手は言う。
「(ゴールドシップを管理する)須貝(尚介)調教師から細かい指示を出されることもなく、競馬に関しては任せてもらえました。それも、迷わずに決断できた要因になりました」
 結果、直線で先頭に立った時には勝利を確信出来たと言う。
 ゴールドシップは後に有馬記念(GⅠ)や天皇賞・春(GⅠ)、2度の宝塚記念(GⅠ)等、GⅠを勝ちまくるが、同時に人気を裏切って二桁着順に沈む事もあった。そして、父のステイゴールド譲りの気性の難しさは広く知れ渡り、それがまた多くのファンを獲得する事につながった。
 平成の晩年に個性的に光り輝いた芦毛馬がいた事を、僕達は忘れない。

(撮影・文=平松さとし)

※無料コンテンツにつきクラブには拘らない記事となっております。