2024.03.05

レッドディザイアの挑戦が残したモノ

 2010年の現地時間3月4日だから、14年前の丁度、今頃の話だ。ドバイ・メイダン競馬場にいた数少ない日本人の間で、歓喜の輪が広がった。
 その輪の中心にいたのはレッドディザイア(栗東・松永幹夫厩舎)だった。

 09年1月、3歳でデビューした同馬はいきなり連勝を飾り、桜花賞(GⅠ)に挑戦。キャリア僅か2戦の身でブエナビスタの2着に好走すると、続くオークス(GⅠ)でもブエナビスタの2着。後に天皇賞・秋(GⅠ)やジャパンC(GⅠ)等も優勝する名牝を相手に善戦すると、秋にはその差を逆転。秋華賞(GⅠ)でブエナビスタに競り勝って、自身初のGⅠ制覇を成し遂げた。
 そんなレッドディザイアが、古馬となった初戦に選んだのがドバイでのアルマクトゥームチャレンジラウンドⅢ(GⅡ、現アルマクトゥームチャレンジ・GⅠ)だった。
 このレースは約3週間後に迫るドバイワールドカップ(GⅠ)の前哨戦。舞台は本番と全く同じだった。当時、松永幹夫調教師は次のように語っていた。
 「オールウェザーの馬場が合うかどうか、ここでこなせるようならワールドCも視野に入れられるし、もし見当違いの結果になってしまうようなら本番は芝のレースに戻します」

 前年まで、ドバイワールドカップはナドアルシバ競馬場で行われていた。しかし、同競馬場の閉場と入れ替えに、この年からは現在のメイダン競馬場に舞台を移した。そして、ダートで行われていたワールドCは松永師が言うようにオールウェザーの馬場に条件を変えていたのだ(15年からはメイダン競馬場のオールウェザー馬場がダートに変更。現在はダートで開催されている)。
 当時は北米の競馬場でもオールウェザーがブームとなっており、あちこちの競馬場でダートコースが改修されていた。その流れを受けて、新装メイダン競馬場もそうなったのだが、これには世界中のホースマンが手探り状態となった。レッドディザイアのこのレースへの挑戦も、そんな流れがあってのものだったのだ。
 結果的にレッドディザイアは後のドバイワールドカップの覇者グロリアデカンペオンらを相手に、快勝する。O・ペリエ騎手に追われた同馬が先頭でゴールインした瞬間、松永幹夫調教師は勿論、同馬の調教助手だった齋藤崇史現調教師や騎手招待レースのため現地入りしていた横山典弘騎手、騎乗停止期間を利用して現地で研修していた吉田隼人騎手ら、数少ない日本人ホースマン達が歓喜したのだ。
 最終的に本番のワールドカップでは同様の力を発揮する事が出来ず、11着に敗れてしまったが、芝馬が走れる馬場である事を証明したレッドディザイアの挑戦は大きな意味を持っていた。1年後にはヴィクトワールピサ(栗東・角居勝彦厩舎)がドバイワールドカップを優勝するのだが、この結果も、パイオニアとなったレッドディザイアの挑戦が無関係ではなかっただろう。ちなみに松永幹夫調教師は当時、次のように語っていた。
 「前哨戦で勝負になる事が分かった後、本番まで良い夢を見させてもらいました。結果は残念でしたが、このような経験をさせてくれたオーナーとレッドディザイアのためにも、これを今後に活かしていきたいです」
(撮影・文=平松さとし)