2023.08.29

招魂の晩夏

日本の夏には、祖先の魂が降りてくるお盆など招魂の祭りごとが人々の生活に溶け込んでいます。競馬の世界でも、亡くなった種牡馬の忘れ形見たちが活躍する光景がたびたび見られ、理屈や想像力を超えた招魂の神秘に胸が震えます。特に今年の夏は、そんな経験に遭遇することが多く感じられます。この週末は招魂の瞬間の到来を予感させる出来事が次々と起こり、先々の楽しみを膨らませてくれました。サンデーサイレンスの永遠不滅と思われていた大記録に、ディープインパクトが疾風怒涛の勢いで迫り、JRA通算勝利記録2749勝の金字塔にあと4勝で並ぶところまで追い上げています。4勝というのは全盛期のディープだったら、1日で片づけてしまうほどの〝瞬間芸〟とも言えるでしょう。もうカウントダウンは始まっています。毎レースすべて目が離せない日が続きそうです。

そのディープに国内で土をつけた唯一の馬・ハーツクライも、国内ではこの日曜新潟の障害戦をアドマイヤアルバが7馬身ちぎる完勝、JRA通算勝利数を1484勝に伸ばし、歴代7位のクロフネに並びました。クロフネも現役馬が残っており、当分は〝抜きつ抜かれつ〟の接戦が続きそうですが、産駒の量と質で遠からず追い抜き、歴代6位のフジキセキ1527勝を追い掛けることになりそうです。その上に鎮座するのは、下から順にブライアンズタイム、ノーザンテースト、キングカメハメハ、ディープインパクト、サンデーサイレンスの国宝級サイアー5頭だけですから、ハーツクライも歴史的種牡馬の仲間入りを認定して良いでしょう。そのハーツ、海外では先週のヨーク競馬場で大変な盛り上がりを見せた伝統の〝グロリアス・グッドウッド〟で確かな存在感を植え付けています。その初日、セントレジャー前哨戦のG2・グレートヴォルティジュールSにハーツクライの血を引くコンティニュアスが出走。難敵揃いだったのですが、最後方から直線でダイナミックなストライドを伸ばして4馬身半突き抜ける圧勝を飾り、来月16日におこなわれるセントレジャーの前売りで1番人気に躍り出ました。世界最古のクラシックで日本発の血統が頂上を踏みしめようとしています。ディープ産駒のオーギュストロダンの英愛ダービーのダブル制覇、サクソンウォリアーの2000ギニー、初クラシックとなったビューティーパーラーの仏1000ギニーなども誇らしいものですが、その輝かしい栄光のパレードに仲間入りして、いささかも見劣りしないのがセントレジャーというレースの歴史と格式です。

ヨーク競馬場は1周3200m・直線1000mの平坦コースでしたが、セントレジャーのドンカスター競馬場も1周3100m・直線1000mでほぼ平坦コースと似通ったレイアウトです。日本からヨークに遠征したゼンノロブロイが、G1・インターナショナルSで当時の世界チャンピオン級とクビ差の激闘を演じています。サンデーサイレンス系の雄大で伸びやかなフットワークは平坦コースでこそ威力倍増すると見抜いた、藤沢和雄調教師の慧眼(けいがん)だったと思います。セントレジャーに日本関連馬の実績はありませんが、同じコースでおこなわれるG1・フューチュリティトロフィーでは、ディープ産駒のサクソンウォリアー、オーギュストロダンが勝利の凱歌を上げており、高い適性を予感させるに十分でしょう。もしコンティニュアスが勝つようなら、2000ギニーのサクソンウォリアー、ダービーのオーギュストロダンと並んでサンデーサイレンスの孫による三冠達成が実現します。こんな日が来るとは夢のようです。

今やサドラーズウェルズやデインヒルなど歴史的名種牡馬の偉大な業績を突き抜けて、誰も並ぶものがいない高みにまで到達したガリレオですが、死してなお記録を伸ばし続けているのは、ご承知の通りです。前出「グロリアス・グッドウッド」の二日目・G1・ヨークシャーオークスでは、ウォームハート・フリーウィンド・セーブザラストダンスの順にゴールを走り抜けましたが、いずれもガリレオの娘たちで1-2-3の快挙を達成しています。エイダン・オブライエン調教師が送り込んだウォームハートはガリレオ産駒99頭目のG1ホースになります。これまでの記録は、デインヒルが85頭で168勝、サドラーズウェルズが73頭で132勝を記録し、世界のトップサイアーに君臨してきました。これらの大記録を破り、さらに遥か遠くまで脚を伸ばしたガリレオには驚かされるしかありません。ウォームハートの翌週にはアメリカサラトガまで遠征したオブライエン厩舎のボリショイバレーがG1・ソードダンサーSを楽勝、ガリレオにとって通算207勝目を加えました。デインヒルを40勝近く引き離すトンデモナイ未踏の新地平です。ボリショイは2年余ぶりのG1勝利ですが、当日はガリレオが天国に召されたその日のG1・ベルモント招待ダービーでした。何かを〝持っている〟のでしょうね。こういう〝持っている〟馬たちが、やたらと多いのがガリレオの飛び抜けた才能です。ヨークシャーオークスの1-2-3もそうですが、7年前の凱旋門賞でのファウンド・ハイランドリール・オーダーオブセントジョージの歴史的1-2-3は、強い馬がたまたま3頭揃ったという結果論的な説明では収まりきらない神秘でした。ちなみに単勝人気は順に5・9・7番人気でした。人間の想像力と競馬の現実の間には、思っているより大きな溝が横たわっているようです。ガリレオとは、まさにその暗く底知れない溝を住処(すみか)とする異能の神々なのでしょうか?ディープやハーツもその一族であるのは間違いがないようです。例年以上に彼らの魂が奮い立った今年の夏でした。晩夏から初秋へ、ドラマに終わりはありません。