2023.08.19

ホースマンは〝人生の達人〟

ジェリー・モスさんが亡くなりました。エンタテインメントの様々な分野で、常に時代の真ん中からの熱いメッセージを送り届けて、私たちを楽しませてくれました。88歳だったそうです。その生き様は〝人生の達人〟とでも呼べるようなものだったと思います。日本の多くの若者たちにも「オールナイトニッポン」のテーマ曲として愛された「ビタースウィート・サンバ」で有名なトランペッターのハープ・アルパートさんと共同で100ドルずつを出資してA&Mレコードを設立、資本金200ドルで始めた会社は、やがて若者の暮らしの中に音楽を気軽に持ち込んで世界のミュージックシーンに革命を起こしました。ミュージシャン、プロデューサー、ビジネスマンとして大きな成功を収めたのはご存じの通りですが、もうひとつ、ホースマンとして競馬をひと回りもふた回りも、さらに面白くて、もっと感動的なエンタテインメントへと変化させてくれた功績も忘れられません。一口に、競馬を楽しくしてくれました。

様々なサラブレッドを夫人と共同名義で所有したオーナーとして良く知られています。モスさん夫妻のサラブレッドたちは、どれも個性的でファンの想像を遥かに超えるような走りで、競馬場を楽しさや感動の玉手箱へと変化させてくれました。ジャコモというアメリカ土着の草の根血統を引き継ぐホーリーブル産駒は、スマートに勝ちまくる名馬タイプではなく無骨で地味な馬でしたが、運良く出走に漕ぎつけた05年のケンタッキーダービーで14番人気とまったく注目されない中で、集まった大観衆を仰天させるジャイアントキリング(大物喰い)をやってのけ、モスさん夫妻をダービーオーナーの輝きでクローズアップしました。こんな面白い場面は滅多に見られるものじゃありません。ファンがモスさんの愛馬にエールを送るのも当然でしょうね。この大逆転ドラマの主人公ジャコモと同様に、A&Mレーベルのアーティストや楽曲タイトルに因む馬名を贈られたのがゼニヤッタでした。

ゼニヤッタは、キーンランドのセプテンバーセールで6万ドルとリーズナブルに落札された馬でした。当時のレートで660万円ほどですから、安馬と言って良いのでしょう。牝馬離れして大柄なこともあって仕上げに手間取り、デビューしたのは3歳も秋のことでした。日本なら未勝利戦も終了している時期ですから、競走馬としての行く末は、お先真っ暗な状態でした。ところがサラブレッドは走ってみなれば分かりません。競馬はやってみなければ分からないものです。いざレースに下ろしてみるや、走るわ走るわ、まるで旋風か稲妻か、信じられないような神脚で宙を飛ぶようにゴールを切り裂く連続でした。ラストランとなったブリーダーズカップ(BC)クラシックに臨んだときには19戦19勝(フィフティーン・フィフティーン)と不滅の金字塔が樹立されていました。

最後の最後でゼニヤッタは後方に大きく置かれ、誰の目にも絶望的としか写らない位置から怒涛の追い込みを見せますが、抜け出したブレイムをアタマだけ捉えられず、生涯初めての敗戦を喫します。ブレイムは祖母に歴史的名牝スペシャルを戴く良血中の良血馬でした。非情なようですが、これも競馬なのでしょう。しかしモスさん夫妻と世界中のファンのエールを背に、一完歩一完歩、ブレイムを追い詰めていくゼニヤッタのストライドは今も瞼に焼きついています。引退したゼニヤッタは死産や流産が重なり、繁殖牝馬としては不遇なまま、現在は功労馬として余生を送っています。日本では彼女の姉の子が、その名も「ゴーフィフティーン」と思わず嬉しくなるような名前でデビューしてくれましたが、叔母の面影を継げなかったのは残念です。ゼニヤッタにはノンビリと悠々自適に余生を過ごしてもらえたらと思います。ご自身、最高のホースマンであると同時に、たくさんの喜びやちょっとの苦み(ビタースウィート)が入り混じった醍醐味を味あわせてくれたジェリー・モスさんのご冥福をお祈りします。