2023.05.19
競馬の楽しみ方
川田将雅騎手の“提言”が話題を呼んでいます。競馬場における競馬の楽しみ方を考える上で、スタート直前に湧き上がる声援をゲートが開くまでの数秒だけ、あと少し我慢していただけませんか、というファンへのお願いです。今週のオークス、来週のダービーと東京競馬場ではスタンドの真ん前にスタート地点が設けられる2400mのレースが続きます。コロナ以降、無観客競馬が続き、入場制限をしながら少しずつ入場者を増やしてきました。声も上げず、拍手だけで意思表示する観戦が続きました。コロナ禍の自己規制から解放されつつある現在、徐々に増えてきた観客もクラシック開幕とともに急増する傾向にあります。オークスやダービーは、大観衆や大声援の経験がないサラブレッドばかりの初めてのスタンド前発走ですから、杞憂と言われようと疑念を全て解消してゲートインしたい思いは十分過ぎるほど理解できます。
海外競馬をテレビ観戦する機会が増えた昨今ですが、向こうの競馬は装鞍、パドック、本馬場入場、返し馬、全てが手短に手早く進められ、ゲートイン直前まで1頭1頭にリードホースが付き添って出走馬のストレスを取り去り、安心させて落ち着かせます。ファンファーレが響き渡ることもなければ、興奮を煽り立てる場内アナウンスもないまま、全てが拍子抜けするほど素っ気なくレースが始まります。観客サービスの心遣いより優先しなければならない大事なことがあるようで、それが馬あっての競馬ということなのでしょう。
1990年5月27日のVTRを見直しています。“伝説の中野コール”が生まれた日本ダービーの日です。ご存じのように19万6517人と今も史上最高として残る大観衆がスタンドを埋め尽くし、身動きもできないほどの場内は熱気にむせ返っていました。決然とハナを切って、1ミリの躊躇(ちゅうちょ)もなく逃げに逃げたアイネスフウジンと中野栄治騎手がゴールを過ぎて立ち止まり、疲労困憊した心身をしばし休めて、やがて自ら励ますようにウイニングランに移る瞬間、確かに「ナカノ!ナカノ!ナカノ!」という声が湧き起こり、次第に嵐のように広がっていきました。競馬の歴史的転換点がそこにありました。しかしスターティングゲートの開く前後の数秒間は、VTRでは確証は得られませんが、現在のようにファンファーレに合わせた手拍子もなく、お約束の大歓声もさほど伝わってこず、自然な静寂が保たれていたように思いました。その年の暮れ、中山競馬場に17万7779人のファンが押し寄せた有馬記念も同様な推移でした。少し手狭に感じられる中山の17万余人は、東京の19万余人より大ごとに感じられます。そこに響き渡るオグリコールは、まるで怒涛のようでした。しかしそれらのすべては、ゲートが開いた後のことでした。レース前には放馬のアクシデントもありましたが、全体としては粛々と進められていたように思われます。
あの当時から30年以上もの歳月を積み重ねていますから、生活習慣が変わればファンの気質も変わっているでしょうし、競馬の楽しみ方に変化が起きるのも当然でしょう。しかし競馬のあり方自体、“全てが馬中心に回って執り行われる安全・公正なレース”という点で一部のズレもないと思います。馬中心に回る競馬は、馬や他者に対する思いやり、敬意の文化と言えるかもしれません。ドレスコードもそんな象徴のひとつでしょう。ロイヤルアスコットほど厳格ではないでしょうが、日本の競馬場でも馬主さんの多くが、誇りを持ってドレスコードを遵守していらっしゃいます。敬意の文化としての競馬を伝えていきたい、川田さんの提言にそんなことを思いました。