2022.10.05
異能の馬
ヨーロッパの道悪馬場を克服して、なおかつ圧勝した日本調教馬といえば、16年のシャンティイ競馬場でG1・イスパーン賞を得意芸の大逃げではなく、あまり記憶にない番手抜け出しで10馬身ちぎったエイシンヒカリでしょうか?このレースは1873年の創設から一貫してパリロンシャン競馬場で開催されてきたのですが、この年は改修工事中でダービーの舞台でもあるシャンティイ競馬場に移設しておこなわれています。距離1850m(この年は1800m)という微妙な設定で、マイルと中距離の二階級の一流馬が揃うのがセールスポイントですね。近年は騎手として名牝ミエスクを勝利に導いたフレディ・ヘッドが、今度は調教師としてG1合計14勝と欧州記録の金字塔を樹立したマイル女王ゴルディゴヴァ、さらに“白い閃光”ソロウといった歴史的名マイラーを勝ち馬に名を連ねさせました。過去にはアレフランスやサガスといった凱旋門賞馬の名前も見えます。日本馬エルコンドルパサーは、ここ2着から距離を延ばしてサンクルー大賞で欧州G1初制覇、凱旋門賞2着と素晴らしい蹄跡を刻み込んでいます。
そういった輝かしい伝統を積み上げてきた名レースだけに、この年も実績・素質とも申し分のない旬の一流馬が揃いました。1番人気のニューベイは仏ダービー馬で昨年の凱旋門賞は3着と惜しいレースを見せています。アガ・カーン殿下のダリヤンは前走ガネー賞でG1初制覇の勢いを評価されて2番人気。凱旋門賞8勝・20年以上もリーディングトレーナーに君臨する名伯楽アンドレ・ファーブルの秘密兵器ヴァダモスが続き、次走のG1・プリンスオブウェールズSでその年の凱旋門賞馬となるファウンドをクビ競り落としたマイドリームボートとエイシンヒカリが4番人気を争う前評判でした。弱い相手ではありません。それどころか、文句なしに“旬の一流馬”のオンパレード。この年のベストレースのひとつに挙げられる一番でした。
ゲートが開くとエイシンヒカリの武豊騎手も手綱をギュッと絞り、どの馬も行きたがらず先を譲り合う雰囲気が蔓延します。イヤイヤでしょうが人気のニューベイがハナに立ち、エイシンヒカリは意外にも2番手に控える展開でレースは淡々と流れていきます。勝負は直線に持ち込まれますが、何とエイシンヒカリが馬なりのままニューベイを交わすと、グングンと脚を伸ばして後続を引き離します。3馬身、5馬身、アッという間に見た目にも10馬身は突き放したでしょうか。圧勝でした。今年の凱旋門賞を戦った日本馬4頭の調教師が口を揃えて(日本馬特有のスピードと切れ味に卓越しているというより)「異なったタイプの馬を連れてくるべき」と戦後談を述べていたのと、エイシンヒカリの勇姿が重なって浮かび上がってきました。レースの現場では、凱旋門賞挑戦というフレームだけで考えれば、いわば“異能の馬”が求められているのでしょう。
日本競馬が生んだ最高の“異能の馬”エイシンヒカリは、現在はレックススタッドで種牡馬生活を送っています。しかし残念ながら種付け頭数は年々減少をたどり、今春はわずか12頭にとどまったそうです。良い意味で“癖”の強い非常に個性的な馬で、万人好みからは掛け離れています。競馬という存在そのものがビジネスライクな思考や手法を推進エンジンとして成長や発展を現実のものとしてきました。その一分野である馬産も、そのフレームから逃れられない以上、エイシンヒカリの“不遇”もやむを得ないのかもしれません。とはいえ、スピードシンボリが野平祐二さんと凱旋門賞に挑んだ1969年から、半世紀を越える日本調教馬による欧州の重厚な馬場との戦いの歴史で、唯一無二の圧倒的な存在感を示し得たエイシンヒカリの“異能”を惜しまずにはいられません。「ベスト・トゥ・ベスト」が、“馬づくり”における古今を問わない万国共通のセオリーだとすれば、「異能・トゥ・異能」の法則も的外れではあるまい、と思ったりもするのですが。