2022.08.29

風雲急を告げる凱旋門賞戦線

「怪物フランケルの再来!」とヨーロッパの競馬好きたちをワクワクさせている“新怪物”バーイードが、「馬場が良ければ」の条件付きですが、彼を管理するウィリアム・ハガス調教師は凱旋門賞出走の意向を表明しています。例年であれば、凱旋門賞の行われる10月初旬のパリは、シトシトと雨に降り込められる季節であり、ロンシャンの馬場が乾くことは滅多にありません。しかし今年のヨーロッパは馬場保全に欠かせない散水にも不自由を強いられる熱波襲来という異常気象に四苦八苦させられています。天も味方して良馬場が望めそうなのは、何よりありがたいですね。バーイードはスピードと瞬発力に秀でた快速の風貌を漂わせていますが、底に秘めるポテンシャルは道悪も苦にしないパワーを感じさせます。良馬場限定の馬ではなく、名伯楽エイダン・オブライエンが愛馬ガリレオの絶対能力を「彼は水の上でも走れる」と評したように、“泥田”のようなコンディションでも飛ぶように駆けることができると思います。しかしハガス師にしてみれば、この先の種牡馬としての大仕事を考えれば、できるだけ負担の重荷は背負わせたくないのが親心でしょう。

この緊急事態勃発に、大あわてさせられているのはブックメーカー各社。バーイード出走を織り込んだ新たなオッズ提示に追いまくられています。大手ウィリアムヒルを参考にすれば、突然1番人気に浮上したのはバーイードご本尊で、倍率は3.0倍。以前はトップを争っていた日本馬タイトルホルダーやこれもG1を5連勝中のアルピニスタが一歩譲る形で7〜8倍に評価されています。それに続くのは斤量有利な3歳馬勢で、日本ダービー馬ドウデュース、仏ダービー馬ヴァデニ、脚部不安から復調したエイダン・オブライエン厩舎のルクセンブルクなどが一塊りで追い、キングジョージ6世&クイーンエリザベスS快勝のパイルドライヴァー、昨年の凱旋門賞馬トルカータータッソなどもこのグループです。この先の9月第2週には、最重要前哨戦の愛チャンプオンS、本番と同コース同距離のニエル賞・フォア賞・ヴェルメイユ賞も待っており、かなりの数の有力馬が出走の構えですから、予断は許しません。降って湧いたような“新怪物”の出走宣言で、凱旋門賞は風雲急を告げています。

オーナーブリーダーとして“新怪物”バーイードを世に送り出したハムダン殿下は、昨年のドバイワールドカップデー直前に亡くなっています。バーイードは殿下がお亡くなりになった後にデビューしており、いわば殿下の“忘れ形見”として、ホースマン・ハムダンの“集大成”を綴るために競馬場にやって来ました。ドバイ出身の有能なビジネスマンとしても著名な殿下は、UAEのカリスマリーダー・モハメド殿下と血を分けた兄君でもあり、ゴドルフィンのロイヤルブルーの地肌に純白の肩章をあしらった勝負服が世界の競馬場を躍動しています。名門シャドウェルスタッドを拠点に、ディープインパクトと同じく女王陛下のハイクレアを牝系の祖とする名馬ナシュワンなど様々なカテゴリーでチャンピオンホースを輩出して、イギリスのリーディングオーナーに9度輝き、世界有数のオーナーブリーダーとして競馬界の最先端を走って来ました。しかし凱旋門賞とは不思議に縁がなく、大本命に推されていたナシュワンは出走に漕ぎ着けないまま引退し、そのナシュワンが生んだバゴはニアルコスファミリーの勝負服での勝利でしたし、21世紀最初の凱旋門賞を圧勝したサキーは親戚筋のゴドルフィンに譲渡した後の栄光で、オーナーとしては凱旋門賞は未勝利のまま亡くなりました。心残りだったかもしれません。

普通に考えれば、無敗で、しかも楽勝ばかりで勝ち進み、マイルG1を5連勝後に2000m級のインターナショナルSを圧勝したキャリアは、種牡馬価値としては十分すぎるほど傑出したものであり、2400mの未経験リスクを冒してまでチャレンジする必要はないでしょう、というのが大方の専門家筋の見解だと思います。そもそもバーイードは凱旋門賞に登録がないため、出走には12万ユーロ≒1640万円もの追加登録料を支払う必要があります。名門シャドウェルはお嬢さんのヒッサ女王が引き継いでいらっしゃいますが、追加登録料など損得の話ではなく、“忘れ形見”バーイードで悲願達成のシーンを見たいのはファンも同じです。ここにはホースマンたち、その考えに共感する無数のファンたちの夢がギッシリと詰まっているのでしょう。今年も素晴らしい夢を見たいものです。