2022.05.10

競馬場に棲む魔物

「The Most Exciting Two Minutes in Sports(スポーツの中でもっとも偉大な2分間)」の尊称につつまれたケンタッキーダービーは、誰も想像できなかった波乱の結末で、文字どうりに“最高のエキサイティング”な瞬間を現実のものとしてくれました。どんな結末になるかを想像するのは難しくても、そもそも波乱自体を予感する人は少なくありませんでした。今年のダービー戦線は、アメリカファラオやジャスティファイの両三冠馬を筆頭に5頭のダービー馬を輩出して飛び抜けた実績を誇り、例年にも増して有力馬目白押しの超名門ボブ・バファート厩舎が、全米を大混乱に巻き込んだ薬物疑惑で出走停止処分など一頓挫あり、他厩舎から傑出馬が頭角を現すこともなく、戦前から“混戦”が伝えられていました。

その様子を冷静に分析した大ベテランのウェイン・ルーカス調教師などは、牝馬シークレットオースのダービー出陣を本気で考えたほどです。ルーカス師と言えば、34年前の1988年にウイニングカラーズで史上3頭目の牝馬制覇の金字塔を打ち立てた今年86歳のレジェンド名伯楽です。と言っても当時の顔ぶれが、必ずしも“弱メン”だったわけではなく、日本でもお馴染みのフォーティナイナー、ブライアンズタイム、シーキングザゴールドといった名馬たちが牝馬包囲網を張り巡らしていました。最重要前哨戦サンタアニタダービーで牡馬を蹴散らした強い競馬に、大いに自信を深めてのダービーチャレンジでした。

シークレットオースは、若死した怪物アロゲートの忘れ形見3世代の中で重賞制覇第1号を記録し、ケンタッキーオークスで最初のG1馬となっています。強烈な捲り戦法を得意としますが、力でねじ伏せる豪快さよりは、夜陰を切り裂くように走る稲妻の切れ味をイメージさせる鋭い瞬発力がウリモノの馬です。ダービーの小手調べで臨んだG1アーカンソーダービーでは、初の牡馬相手でもあって捲り不発の3着に敗れダービー双六を降板しましたが、今にして思うと残念な気持ちが後から後から湧いて来て止まりません。日本馬クラウンプライドなどを主役とするスピード争いが生み出した絵に描いたような前崩れの展開は、シークレットの“稲妻の切れ”が最高に映える桧舞台になるはずでした。内からガムシャラに追われるリッチストライク、外から電光石火のキレ味で迫るシークレット、そんな夢が花開くゴール前が見られたでしょう。

しかしそこまでは誰にも想像できません。世界の舞台で躍進する日本のエースであり国際ジョッキーであるクリストフ・ルメール、腕自慢が覇を競うフランス競馬界を代表するミカエル・バルザローナが激しくハナ争いを演じて、道中ではダービー3勝・ブリーダーズカップ10勝のアメリカンドリームを生きるジョン・ヴェラスケスまでもそれに加わる、名手3人の見た目にもオーバーペースな先行勝負は、さすがに予想を遥かに超えていました。「競馬場には魔物が棲む」と良く言われますが、2分後の偉大な瞬間への思いが百戦錬磨の名手たちのジャッジをも狂わせるのでしょうか?そこに秘められた“勝負のアヤ”を読み解くことこそ、競馬の醍醐味なのかもしれません。そのあたりを、もう少し深く考えてみたいと思います。